エモの消費
まずはこのツイートを見ていただきたい。
この画像が回ってきた時から何かモヤモヤしてたんだけど、この方が腑に落ちる言語化をしていたのでそのまま引用。
「エモさを前面にこれやったらバズるやろ」が先導していて、事実を置き去りにしたような、歴史の文脈を無視したような画像で、真っ当でない感じがする。特にこの文脈を無視するような真っ当じゃない感じが個人的に許せないというか、好きじゃない。なんだろう。連続性が感じられないからかな。
ネタの連続性
連続性の感じられなさで言えば、バズっているネタ投稿の2次、3次制作物なんかもその節がある。
(バズっているネタ投稿: 元ネタとなるような作品が存在しており、その元となるような作品およびその一部をネタに面白いことを言ってバズっている投稿のこと)
あるネタでバズらせを始めたネタ投稿(ネタ投稿の1次制作物)というのは製作者の独自性、作ったネタ投稿の元となるネタ/作品との連続性があり(元作品からネタ投稿までが地続きである)、どこか完成された感がある。良い意味で閉じているというか。
一方でそれを見て、面白いと感じ、それをベースに似たような投稿をする人が現れる。ここで生まれるのがネタ投稿の2次制作物である。
これ自体は全然良い。技術の進化みたいなもので、良いものからさらに良いものが生まれるから。ただ、ここで「こうしたら面白い/バズりそう」という思考、さらに悪く言えば「これを使いさえすればバズりそう」という思考が先に立って作られたネタ投稿というのは、元の製作者、作品がきちんと沿わせていた文脈を分断するような、そういう連続性をバッサリと切り離したような作られ方をしていることが多々ある。
この連続性が分断された、自分のエゴのために作られたおもしろさというのは、一見面白いが、薄っぺらく、見ていて退屈と感じる。
ここでエモの消費の投稿に話を戻すが、エモの消費で話したモヤモヤはこれだ。おもしろを優先したために存在しない連続性を作ろうとしているから薄っぺらく、キモいと感じる。
自分が何か作るときは、この連続性は大切にしたい。
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